源太夫獅子
御車山を先導する源太夫獅子

御車山を先導する源太夫獅子

「坂下町」は高岡御車山祭の奉曳(ぶえい)巡行に供奉する町の中で唯一、曳山を所有しない町です。

 御車山には7基それぞれ別の神々が宿り、決められた街中のルートを練り歩きます。

 この際、坂下町では『源太夫獅子(げんだいじし)』と呼ばれる獅子頭を持ち、神々が通る道を予め払い清める「露払い」役として、粛々と7基の御車山行列の先導を務めます。

源太夫獅子の由来

 富山県には大変多くの獅子舞が伝承されており、平成17年(2005年)に実施された富山県教育委員会の調査によると総数は1,170件を数え、全国1位とみられています。

 これらの獅子舞の大半は江戸中期以降に発祥したとされ、獅子あやし(天狗など)と共に芸能化した“演目”を舞う「芸能の獅子舞」に分類されます。

 一方で、室町時代から江戸中期にかけて製作された「箱獅子」とよばれる平べったい獅子頭が各所に遺されいます。この獅子は御輿などの先導を務める「行道の獅子」に分類され、坂下町の源太夫獅子はこの「行道獅子」にあたります。

天狗と獅子が掛合う
「芸能の獅子舞(百足獅子)」(富山県氷見市)

分類 発祥 タイプ 特徴
行道(ぎょうどう)獅子 室町~江戸中期 行道獅子 中世からの歴史をもち、御輿行列などの露払い役として「古い箱形」の獅子頭が練り歩く
芸能の獅子舞 江戸中期以降 百足獅子
二人立ち獅子
獅子あやしと獅子による掛合いが演目として成立し、地域ごとに独自の進化を遂げている
獅子舞の分類

「坂下町」の源太夫獅子は、『古くの御車山祭は神輿の共奉を務める大行列であり、獅子が露払いと称して先導を務めた』との言い伝えを元に昭和58年(1983年)に復活しました。獅子頭は、高岡市の北西約7Kmに遷座する二上射水神社の春季祭礼「築山行事」で神輿を先導する「源太夫獅子」を原型に復元されました。

 復活から8年後の平成3年(1991年)に、明治16年当時の御車山祭の様子を克明に描いた絵図が発見されました。この絵図からは、祭礼旗に続いて源太夫獅子が行列を先導した様子を読み取ることができ、古くからの言い伝えを裏付ける大変貴重な資料となっています。

「越中国高岡關野神社祭礼繁昌略図付録」/高岡市立博物館蔵 - 1

越中国高岡關野神社祭礼繁昌略図付録」(右側半分)

「越中国高岡關野神社祭礼繁昌略図付録」/高岡市立博物館蔵 - 2

越中国高岡關野神社祭礼繁昌略図付録」(左側半分)
高岡市立博物館蔵

二上射水神社「築山行事(つきやまぎょうじ)」

 二上射水神社(富山県高岡市二上)の春季例大祭「築山行事」は『祭りに際して天上の神が祭壇(築山)に降臨する』との古代信仰の様子をきわめて具体的に現しています。築山は祭り当日の朝に組立てられ、一定の場所から移動すること無く、神事が終わるとその日のうちに解体されます。

 この動かない築山が動く曳山へと発展したとする説から“御車山祭の源流”とも言われていますが、これを裏付ける文献は見つかっていません。

 築山行事では、本殿から「築山」までの間、神を迎えるための御輿渡御が行われ、この際に露払い役として「源太夫獅子」が先導を務めます。

 この「源太夫獅子」を高岡御車山祭に貸出したとする天保5年(1834年)の記録が、平成21年(2009年)に二上総合調査研究会らの古文書調査によって発見され、ここに僅かながら「築山行事」と「御車山祭」の接点を見いだすことができます。

二上射水神社の築山行事

祭りのために特設された
祭壇(築山)

二上射水神社の源太夫獅子

御輿渡御を先導する
二上射水神社の源太夫獅子