(私的小論) 近世高岡と御車山   小馬出町 S
 約400年前1609(慶長15)年、それまでは関野と呼ばれていた地に前田は城下町を作ろうと動き出した。入念な町立て、町割りをし、ダイナミックな都市計画構想の下に、往還道を町の軸として走らせ、有力商人を町に住まわせ、鋳物師などの物づくりの集団を集めて産業振興をも整備した。突貫工事を思わせるような築城工事。それを取巻く武家屋敷の整備。前田は相当の勢いで町を作りあげ、この地を詩経にある『・・・鳳凰鳴けり、かの高き陵に・・・』から、吉例引用し『高岡』と命名した。

 前田は金沢を本拠としていたが、隠居城として富山城を築いた。だが、これを焼失したため、次なる候補地としてこの高岡を選んだのである。まだ戦国を残像する時代に、富山の地は前線過ぎたと考えたのかもしれない。越後からは一歩退いたかたちになるが、高岡に居を置いて俯瞰すれば、戦略上もよし、砺波平野の穀倉地帯を背後に抱え、水運に利便な河川あり、産業振興の視野から見てもいろいろの地の利が見えた。能登への交通の便もよし、富山築城以上に力が入ったのである。この頃になると、400人とも500人とも言われる武家が住まうようになり、工人たちも定住し、物資を購う商人も徐々に増え、町は活況を呈した。食料・布・生活雑貨・・・おそらくは何を扱っても面白いほど商品は捌け、潤った事だろう。あとは城の天守築城を残すのみとなっていた。御車山祭もちょうどこのあたりが始まりとされる。高岡が城下町として一瞬の輝きを見せた時期であった。

 まさしくこの時1615(元和元)年、江戸幕府は「一国一城令」を発布した。一つの藩(国)に、城は一つと制限する大名統制の策である。当加賀藩は金沢城のみを残し、高岡は廃城とすると決定した。  廃城―築城工事の停止、従事の者たちは当然不要となる。これまた不要となった武家は20人ほどの奉行所役人のみを残し、大半のものは金沢に引揚げることとなる。商人・工人ら町の者からすると、まさしく急転直下、『武家に見捨てられた高岡』は大混乱に陥った。加えてあてを失った町民も去り始め、人口流失は歯止めがかからない状態であったと云う。

 この「一国一城令」から5年後の1620(元和六)年、藩は人口流失を防ぐため転出禁止令を出した。その後矢継ぎ早に策を講じ、町の壊滅・崩壊を防ぐための高岡再生プランをようやくスタートさせる。  手始めに往還道の付け替えを行った。ルート変更で交通のより利便性の高いものにした。次に残った有力商人に対し、いろいろの特権を与えた。越中に産する麻布すべてを検印する「布御印押人」や藩の貨物や信書輸送を担う「御荷物宿」の設置、魚・塩・米・綿などの専売権や取引の権利などである。およそ50年の年月をかけ、これら諸制度を導入したのである。

 諸制度に庇護され、町には活気が戻り町人たちはようやく潤い始めた。同時に町づくりにおいては町人自ら自治統治組織を整備構築し、高岡は再生した。城下町から商人町の高岡への変貌である。

 さて、高岡のもっとも高岡らしさや高岡の風土を考えると、やはりその源はこの屈折した歴史にあるのだろう。藩発布の諸制度に守られてではあるが、『武家に見捨てられた高岡の町民』の必死のがんばりはやはり評価に値する。それら諸制度・利権を藩から引き出したのは高岡商人の必死の願い-嘆願があったからこそと、考えられないだろうか。

 山町は高岡の旧市街地にある町。各町に『御車山』を有することから、山町と称する。通町・御馬出町・守山町・木舟町・小馬出町・二番町が各町に山車を有し、源平町・三番町・一番町が三町で「一番街通」の山車を共有する。源太夫獅子(ゲンダイジシ)は曳山巡行の際、これら七基の山車を先導するが、この坂下町を加えての全十ヶ町を山町と云う。

 御車山の起源は、豊臣秀吉が自分の別荘聚楽第に後陽成天皇と正親町上皇の行幸を仰いだときまで遡る。このとき使用した車を秀吉は前田利家へ譲り、さらに利長が貰い受け、利長は由緒あるものとして高岡町民に与えた。高岡町民がこれに多少の装飾を施し、祭礼として曳いたのが御車山祭の始まりである。江戸初期、御車山祭始まりの頃の山車は、今より相当簡素なものであった。
 江戸中期に入り、高岡は商業都市として、城主のいない一地方都市としては、他に例を見ないほど異例の発展をする。現在、その発展を検証できる材料のひとつとして御車山が存在する。隆盛を見た大店の商人たちは競って自町御車山の拵えを、当時一番の工人に依頼した。本座人形を高欄を後塀を車輪の造作を、どんどんと立派なものに置き換えてゆき、見応えのある美術工芸の集積とまで賞賛される御車山に成長していった。また、請け負った作り手がこの要請に応えてゆく中で、金工・漆工ともに高岡の製作水準は飛躍的に上がり、工人の技は芸術の域にまで達するようになっていった。
 なぜ、そうまでして山町の商人たちは御車山にのめりこんでいったのだろうか。いかに経済的に潤沢になったといえ、なぜ、隣の町に負けまいと競うようにして御車山に金をつぎ込んだのだろうか。御車山は地山を基に、部品を組み立て上げて完成させる。通常各部品は箱に入れて収納されているが、古い部品の箱には江戸時代の年号と寄贈者の名前が箱書きされている。山宿を引き受けた家の者ならば分かる事だが、山が巡行に出発した後、山宿に残された空箱の山の中に書かれた多くの箱書きに囲まれると、昔の人々の鬼気迫る執念、それに近いものさえ感じられる。自町の御車山が立派になることに喜びを見出す山町人の中には、度量や経済力だけではない‘何か’があった。

 祭当日、山町の旦那衆は紋付に裃、袴を付け一文字笠をかぶり、晴れがましく堂々と御車山のお供ににつく。まさしくハレの日である。祭見物に出た人々の目には、派手な花傘の色彩に目が慣れると立派な御車山の調度・拵えが飛び込んでくる。ややこの町の山車は何か今までと雰囲気が違うぞ、そうか、高欄がえらくりっぱになったじゃないか、よく見れば幕押金具も新調したようだ。そして、その前に視線を移せば、そこには知り合いの旦那が威厳を正している。目と目が合い、挨拶を交わさずにはいられない。作法どおりに拍手を打ち、御車山にお参りをした後、旦那と無沙汰を詫びた挨拶をする。
 この光景はありがちな場面を想定した作り話ではあるものの、おそらくは昔からの御車山祭の一光景であり、夕暮れ時の曳き終わりまで随行の旦那衆は町のあちこちでこのご挨拶を繰り返しながら奉曵を進めてゆくのである。
 この繰り返す短いシーンの中で、山町人はどのようなご挨拶の受け答えをして来たのだろうか、城下町から商人町へ変貌するに要した年月は意外と長い。しばらくは苦しい時代だった、どん底も見たが、今は見事に復興・復活したとと云う意地を見せたい・・・『私らは、今も元気でやっておりますよ』と、熱いメッセージを送りたかったのではないだろうか。お蔭様で自分の店は大きくなり繁盛しております、町も元気になりまして、御車山も立派に曳いております、存分にご照覧あれ、また機会があれば訪ねてこられよと。御車山の奉曳は、藩に対しても、近郷近在からの人々に対しても、自分たちが元気にやっている証を見せるまたとない機会だったのであり、御車山の拵えはその小道具だったのかもしれない。