「与四兵衛伝」(承前) 小馬出町 作井 宗人
事件の真相はこうであった・・・
時に安永4年9月15日、放生津の曳山祭の当日の事であった。与四兵衛の一行、予てよりの高岡−放生津との誓約が実行されているかを確認のために放生津の祭りに乗り込んだ。ところが果たして、案の上その約束は履行されていなかった。では、その誓約・約束事とは何だったのか。
またまた回り道をしてしまうが、この時代を今一度俯瞰してみたい。
江戸時代の中間を経過しようとするこの頃になると、‘民’の力が雄々しく台頭してくる。山間部、平野部、海浜部とさらに交通の要所となる所が大いに栄えるようになった。町民が財力を持つようになった場所−城端、今石動、放生津がこぞって‘曳山’を始める。他所の旦那衆は、取引のあった山町に招かれたり、祭り見物に来たりし、そのきらびやかな拵えに圧倒され、‘きなるい(羨ましい)’思いもし、自分たちでもこれを持ちたいという思いが募った事であろう。この時代、町民は思いを実現できる財力を持ち始めていた。
もともと高岡御車山は、天正16年(1588)秀吉が後陽成天皇と正親町上皇を聚楽第に迎え奉る時に使用したものを前田利家が秀吉より拝領し、さらに2代目藩主利長が高岡を開くに当り、高岡町民に与えたものである・・・。
この由緒の正しさをめぐった‘騒動’は3回あったと云う。1回目・2回目は高岡木町との争いであり、いずれも高岡側からの提訴によるものである。1回目は木町が勝訴したが、時代は下って90年後の2回目、この頃になると木町曳山は衰退し実態がなかったため高岡の勝訴となる。この宝暦の騒動(1763)で高岡の「山町」は、他町の「御車山」似寄りの曳山の禁止裁定を勝ちとることになる。さらに約10年後、今回の舞台、与四兵衛が活躍する‘安永の曳山騒動’(1774)が起きる。この騒動を経て、山町は高岡御車山の正統性を確信し自信に満ちていた。
一方、この「由緒ある」高岡の御車山を真似、先の石動、城端、放生津が山車を曳き始めた。これに対して高岡の肝煎らが抗議して町奉行に幾度も請願した。町奉行からは三町を支配する郡奉行に善処方を図ったが容易に改善されなかった。ついには金沢の年寄衆へ直訴し、石動、城端は差止めに同意し、放生津は車に板を打ち付けて曳くという条件付で了承したという。