「与四兵衛伝」(承前)                 小馬出町 作井 宗人
 さて、安永4年(1775)9月15日の放生津の祭当日、その通り実行されるかどうか、監視のため高岡から勇み与四兵衛らが乗り込んだ。いろいろと町中を見たが約束の板は一枚も打ちつけていない。ついに立町まで来てみても、そこも同じである。「何じゃーこりゃー・・・」の思いを立町の肝煎に質した。「約束通り板を打ちつけたが、曳き回し途中ではぐれ落ちたてしまった」という。「然らば元の通り、板を打ち付けて曳くべき」と詰め寄ると、「一旦落ちた板を、元の如く打ちつけよとまでは約束していない」。このような誠意のない肝煎の対応に津幡屋与四兵衛らは堪り兼ね、鳶口を振り上げての喧嘩騒動に及ぶこととなった。その場には、何がしかの不穏な空気を読んでいたと思われ用意よろしく魚津より火付盗賊改が来ていた。結果、他三名と共に引き立てられて投獄された。
 詮議の際も、与四兵衛はひたすら高岡御車山の由緒を訴え続けた。「利長公おわせば、かくのごとき事いかにお嘆きおわせしか。正統なる曳山は高岡のみにて、他所のもの断じて認めがたし。」、「藩ご威光衰退ゆえの他所の無知無礼なる振る舞い許しがたし・・・」。連れの者たちは許しを乞うたためご赦免となるも、与四兵衛はますますひるむところがない。詮議役に対しても「権現様生きていたなら、あんたなんか即刻切腹ものだ・・・」、とまでいえば詮議は厳しくなるばかりである。厳しい詮議に耐えきれず入牢9ヵ月にして病を発し、牢死してしまう。
 この牢死を聞いて高岡町衆は憤った。高岡肝煎らは町奉行同道して金沢の藩庁に赴き、陳述に及ぶこととなる。結果、高岡御車山は由緒あるものとして、今後、他所他社において用いること一切まかにならぬと差止めの裁定が出された。与四兵衛は一命を賭してこの裁定を引き出したことになる。

  掲載写真「津幡屋與四兵衛旧蹟」の銘板にはこのように記してある。
・・・以来高岡町民は、一身を犠牲にしたこの義挙を大いに讃え御車山の守護神として関野神社境内に祠を建てその霊を慰め今日に及んでいる・・・